일본 돗토리현(鳥取県関連)

지방의 교류가 외교를 바꿀까?(地域間交流が外交を変えるか)

별이(スバル) 2008. 12. 8. 00:24

 돗토리현 지사를 역임하고, 현재는 일본 케이오대학의 교수로 계신

"카타야마 요시히로"씨의 저서 "지방의 교류가 외교를 바꾼다"라는 책을 중심으로 인간 카타야마를 조명해 보았습니다. 

저 개인적에게도 많은 영향과 가르침을 주신 분이지요.

(원문 리포트는 첨부화일을 보세요)

 

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地方の交流が外交を変えられるか

‐「地域間交流が外交を変える」(光文社)からみた片山善博-

 

1.はじめに

  

  私と「片山善博」鳥取県知事との「縁」は今から10年前までさかのぼる。19938月、私は韓国の江原道庁から鳥取県へはじめて派遣された公務員として鳥取県へ来た時期からである。鳥取県庁に到着して、まっすぐ表敬訪問に行った人が当時の総務部長であった片山善博氏である。

 

  当時、私の日本語は片言の挨拶くらいしかできない情けない水準であったが、何とか手振り身振りで、色んなことを話そうとした。 今になって振り替えてみると半分も通じなかったようで、とても恥ずかしく思っている。

 

  しかし、10年が過ぎた今でもはっきり覚えていることは、彼の韓国に対する深い理解と関心である。それだけは、かれ特有の「眼光」から読み取ることができたこと。また、どのような話題についても原稿なしで何時間でも筋がたった講演ができるような優れた能力の持ち主であったことである。

 

  鳥取県での8ヶ月間、私は日本語と日本文化も習うことができ、多くの友達もでき、彼らとの心の交流もできた。爾来、韓国に帰ってからもこれが縁になって10年間あまり江原道と鳥取県間の国際交流の窓口として仕事をすることができた。したがって、鳥取県という地域は私の日本との縁の原点であり、その真中に立っている人が片山善博氏である。

 

  先日、東京のある本屋で片山善博氏が書いた「地域間交流が外交を変える」という光文社刊の文庫版を見つけた。その場で半分は立ち読みしたが、この本には私が知っている片山善博という人物の考え方が素直に書かれており、彼の韓国との縁と交流の話題については、今まで私が実務者としてやって来た交流の仕事がそのまま書いてあったので、「立ち読みだけで済ませるようなかるい本ではない」と思い、あと半分は家でゆっくり繰り返して読むことにしたのである。

 

  このレポートでは、彼はどのような人であるか、この本に書かれている彼の考え方は何か、彼の言葉とおり外交を変えるような地方の交流のあり方は何かについて自分の意見をまじえながら述べてみたいと思っている。

 

 

 

 

2.片山善博はどんな人物であるか。

 

(少年時代)
 1951年岡山県の東部に位置する瀬戸町で生まれ育った少年時代の片山善博知事は、温厚な性格で、国を批判したり、県議会に緊張感ある論戦を挑むような、今の姿を連想させる片鱗は見られなかったという。思いのほか病弱で、喘息で苦しんだ時期もある。しかし、「息さえできれば」という少年時代の体験は、いざとなれば開き直れる今の強さを養ったのかもしれない。

自治省入省)
 片山知事が公務員を志したのは高校時代。「きれいごとかもしれないが、社会のために貢献したい」という気持ちが強くなり、東大法学部へ進学。就職時に、銀行との間で迷いもしたが、初志を貫徹したという。自治省を選んだのは、教師だった両親が教育行政に関わり、地方自治に関心があったこと。そして、当時の自治省には非常に自由な雰囲気があり、「自分に合っていると直感した」からだともいう。

故 梶山静六 氏との出会い)
 1974年自治省入省後は、国家公務員として国民のためにプライドをもって仕事に取り組んだ。組織の論理と一線を画して働いているという自負もあった。しかし、1987年に自治大臣に就任した故・梶山静六氏のもとで大臣秘書官となり、その自負は打ち砕かれた。梶山氏を前にして、梶山氏でさえも自分が思っていた以上に組織へのこだわりがあることを思い知らされたという。以来、梶山氏が繰り返し口にした「常に志は高く、仕事は活発に、されど私生活は質素に」が、座右の銘となった。

鳥取県知事への転身)
 岡山県で生まれ育ち、東京で働いていた片山知事に鳥取県との縁ができたのは、1980年に鳥取県地方課長として赴任してからだ。財政課長を経て一旦は自治省に戻るが、再び県総務部長として着任し、7年近く鳥取県行政の中枢を担ってきた。だからといって、「まさか自分が知事になるなんて夢にも思っていなかった」ので、1998年暮れに知事選への出馬を要請されたとき大いに悩んだ。子育ての真っ最中だったし、東京での生活も落ち着いていた。しかし、7年間の行政手腕を買われての要請は、地方自治に携わる片山知事を動かした。この要請を、本人は本望と受け止めたという。

韓国語)
 片山知事は、韓国語を多少なりとも理解することができる全国唯一の知事だ。国土庁時代の1984年、初めて韓国を訪問した際、相手国を理解するためにはその国の言葉を理解することが大切と痛感し、以来、独学で韓国語を学んだ。自治省国際交流企画官時代の経験を活かし、県総務部長として、環日本海交流の礎を築き、韓国に多くの知人、友人を得た。これまで数多くの交流を通じて済州島以外の全ての地域を訪問した。2000年8月には、日本の知事として初めて、北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国にも足を踏み入れた。

野球と切手)
 2000年6月、片山知事は鳥取県が開発したタイガーススイカを甲子園球場に持ち込んで、特産の「鳥取すいか」をPRした。始球式で知事が投じた一球は見事なストライク。少年時代にスポーツマンとしてならした頃の片鱗を見せつけた。長嶋選手の大ファンだったという片山知事は、親子野球大会や地元の東京六大学OB野球大会など、今も機会を見つけてプレーを楽しむ。切手蒐集も、片山知事の小さい頃からの趣味の一つだ。情報の宝庫である小さな紙片を通して、世界へと広がる夢を今も楽しんでいる。

4男2女)
 片山知事には、4男2女、6人の子どもがいる。夫人の弘子さんは高校の同級生。狭い官舎暮らしにも拘わらず、気がついたら6人の親になっていた。ゆえに、一人の父親として教育問題にも高い関心を示す。子どもの参観日にはきちんと学校へ行き、PTAにも参加する。「仕事だけでは半人前」「仕事は効率よく切り上げて、もっと地域に出なければならない」と、常に職員に説く。

 

3.この本から読み取れる彼の考え方は。

 

  まず、この本の流れを紹介したい。

 

彼はこの本の冒頭から約半分の紙面をかけて、今から一八〇年前の江戸時代、朝鮮の商船が遭難し、鳥取の海岸に漂着した史実を真っ先に取り上げている。

 

船員たちは当時の鳥取の民衆に手厚くもてなされ、三か月間の滞在を経た後、無事朝鮮に帰ることができたのである。鳥取藩のお抱え絵師がこの様子を描写した掛軸を、一九九三年、当時鳥取県の総務部長だった片山善博が目にしたことから、漂着民たちの子孫探しがスタートする。

 

彼はこの本を通じで、この一幅の掛軸から深まった鳥取県と韓国・江原道との交流を中心に、北朝鮮、中国、モンゴル、ロシアとの関係を紹介しながら、国と国との外交を変える力を持った、地域同士の結び付きについて述べている。

 

特に、彼は朝鮮半島が日本にとって如何に重要であるか、度々強調しており20008月日本の知事としては初めて北朝鮮を訪問している。

 

初めて北朝鮮を公式訪問した鳥取県の片山善博知事は帰国後の記者会見で、「中央当局の方々に、地域間交流を進めたいと協力を要請した。日本海を挟んだ交流の重要性が認識されており、協力してもらえる感触を得た」と北朝鮮側が交流に前向きな姿勢だったことを明らかにした。


  片山知事は平壌であった朝日友好親善協会の宋浩京会長対し、九月に中国吉林省で開かれる北東アジア地方政府国際交流・協力サミットに咸鏡北道か羅先市が参加できるよう協力を要請。境港と羅津港との定期航路の実現に向けて双方が協力することも提案したのである。


 これに対し宋会長からは「交流を深めることは大変いい構想なので研究してみたい」と回答があったという。


  会見で、片山知事は「交流の糸口ができた。どこと決めずにできるところから始めたい」とした上で、具体的な交流地域について「咸鏡北道を念頭に置いていたが、元山市のある北朝鮮側の江原道も選択肢の一つ。韓国側の江原道とは既に交流を重ねており、南北の江原道が鳥取県を介在して交流する可能性もある」と述べている。 

 

では、これから彼の発言内容を中心に「地方は外交を変えていくのか」について彼の考え方をまとめてみたい。

 

片山知事は、「地方自治体は国の出先機関ではないし、地域間交流も外交の下請けではありません。だから、我々の交流は国のために行っているわけでもないし、私も交流を行う場合には、いつも“これは鳥取県のためになるかと地域の利益と発展を念頭においてやっています。国の専幹事項である外交に、私は口を出すつもりはありません」と地域間交流と外交は別物であると前置きした上で、さらにこう言っている。

 

「だからといって、地域間交流と外交がまったく無縁のものであるか、といったらそうではありません。たとえば、鳥取県の境港市と北朝鮮の元山市との交流などは、日朝の信頼関係に多少なりとも寄与しているのではないかと思う」と語っている。

 

そして、日本の自治体としては、唯一、北朝鮮と交流している境港市のことについては、

 

「我々には、日本海(韓国と北朝鮮では東海と呼んでいるが)を中心にした外国との付き合いの経験、財産がある。幅広い人的交流がある。我々はこうしたノウハウを国に提供に吝かでない。国は自分たちだけで何でもやろうとしないで、こうした地方のノウハウを活用したら良いと思う。また、国も我々の地域間の交流にもっと関心を持ってもらい、応援もしてもらいたい」と語っている。

 

この本の末尾では、剣持佳苗(フリーライター)さんが次のように評価している。

 

「これまでは中央政府の下に都道府県があり、その下にさらに市町村があり、様々な決定事項は、この順番に従って中央から降りてくるシステムだった。地方から中央に情報が発信されることはなかったし、中央にしてみれば、地方に教わることなどない。という風潮に支配されていたのだ。だが、今は片山をはじめ、全国に元気のいい知事が誕生し、地方自治が活力をもどしている。これからは、中央から地方へ、という図式は確実に崩壊しているだろう」

 

  引き続き、彼女は地域間交流と外交の関係に対する片山知事の考え方を次のように伝えている。

 

  「鳥取県は地域間交流を実践することにより、県民意識や経済など色んなことが変わってきた。他の地域も、近隣諸国と交流を行う過程で、自ずと変わってくるとおもう。片山は“国民の意識という土台の上に外交はある”という。つまり、地域が動けば、国民の意識も変わり、土台が変わる。土台が変われば外交も変わっていく。そういう意味では、地方の地域間交流から、外交を変えていくことも不可のではない。」

 

 

4.おわりに

 

 先週、私は鳥取県から一通の招待状をいただいた。

 

それは、前述したように180年前の江戸時代、朝鮮の商船が遭難し、鳥取の海岸に漂着して無事に帰った史実を記念して、鳥取県では当時の船が漂着した赤碕町の海岸に「韓国友好交流記念公園」をつくり、200383盛大なオープニング式典を開くとのことである。

 

私は、久しぶりに会える片山知事をはじめとする鳥取県民の皆さんに、彼が書いたこの本を読んだ感想とともに、今後の地域間の交流のあり方について私なりの考え方を次のように話したいと思っている。

 

1)お互い尊重し合うことから

 

  顔色も同じ、近い距離、色々な面で似ているが、文化と考え方は同じではない。顔が一緒だから考え方と文化が一緒であると思いこむことは危険であることである。アメリカの白人と黒人は顔が違うから日本語も下手であることと最初から認めるが、韓国人と中国人は日本語が当然できると思っている人が多い。

しかし、韓国人も中国人も日本語は厳然たる外国語であることを理解しなければならない。お互いの文化を理解しながら尊重し合うことから交流は始まるのではないか。

 

2.個人の素直な気持ちから

 

  英語など外国語ができるという以前に偏見や既成概念ではなく個人として素直な気持ちで付き合えること。子供は言葉が通じなくてもすぐ親しくなり友だちになれる。近所との付き合いから遠方との交流につながる。役所では交流のきっかけをつくり、交流は個人と民間が中心にしていきたい。  

 

3.お互いの制度を学びの場として

 

  韓国では戦後日本とアメリカから多くの制度を取りいれ、韓国の風土にあわせて応用している。日韓のように環境と風土が似ている国は他にないと思う。

地方レベルの交流が互いの発展にもお役に立てることは間違いない。

  財政と観光分野でもそうであるが、市町村合併も韓国は1995年に実施したことがある。これからは連携の時代なのでもっと仲良く学び会うことが必要である。

 

4.国際観光・経済交流も友好の土台の上から

 

  以前から江原道庁の国際交流担当者は道議会から国際交流の経済・観光効果について責められている。しかし交流ができれば経済と観光は付き物である。長い目で進めるべきではないか。 

このためにも、まずはソフト面の交流と地域連携を大事にしていきたい。米子空港とソウル間の定期便の開設は鳥取県の韓国との交流の成果ではないか。

 

 

「参考文献」

 

1.   片山善博、剱持佳苗、「地域間交流が外交を変えるー鳥取‐朝鮮半島の「ある試み」、2003、光文社

2.   鳥取県公式ホームページ

  http://www.pref.tottori.jp/

 

 

 

 

地域交流(政治).doc

 

 

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