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종교적 생명관과 장기이식에 대하여(宗教的生命観と臓器移植について)

별이(スバル) 2008. 12. 12. 14:39

 

宗教的生命観と臓器移植について

-日本の仏教とキリスト教を中心にー

 

 

 

1.はじめに

 

人間が避けられない死に直面して、生と死の意味を問わざるをえないとき、各人は自己の死生観によって生と死を意味づけている。 

 

近代以前の社会では、人の誕生と死は、共同体や地域社会の共通の関心事であり、出来事であった。人間の臨終は、大家族、親類縁者や地域社会の人々に見守られ、身近な日常的な出来事であった。人々は臨終に居合わす機会も多く、死に往く者の末期まつごの姿を見守ることができた。

 

ところが、現代社会では、人間の平均寿命の伸びと核家族の増加によって、死を身近なものとして目撃し、臨終を迎える者と共に過ごす機会が大幅に減少してきた。また、医療制度の充実、医療技術の進歩と総合病院としての医療機関の増加によって、大多数の人々が在宅ではなくて、最先端の医療設備に囲まれ、最大限の延命治療を受けて、病院で死を迎えるようになってきた。

 

さらに、医療技術、救命・延命技術の進歩によって、医療に「生と死」をめぐる諸問題が提起されてきた。「脳死」を「人の死」と見なすことによって、臓器移植が法的に認められたとしても、欧米に比べて、臓器提供者が圧倒的に少ないのは、単に医療不信があるだけでなく、日本の民俗宗教の死生観に基づく生命観や遺体観が根底にあると考えられる。

 

 

このレポートでは日本における仏教的生命観、また、キリスト教における生命観を整理した上で、臓器移植に関する各宗教界の反応をまとめることにしたい。

 

2.仏教における生命観について

 

1)日本人の宗教感情と仏教的生命観

 

日本人の宗教感情には、①霊魂という考え方があり心臓が動いているうちは霊魂が宿るという主張、②死んだ人は神聖で傷つける事はできないという感覚、 ③愛する家族に対し「死なないでほしい」「死を認めたくない」という愛の感情が、霊魂の観念、遺体の神聖観となってくる。

 

こうした感覚を一般に日本的宗教観とか、仏教の考え方などと言っているわけである。ところが、仏教にはこうした『民俗的宗教感情』もあると共に、『仏陀の知恵と慈悲の在り方』も説いている。

 

仏教の生命観を簡単に整理すれば、

 

 仏の悟った「縁起」と言う真理を生きているのが生命であり、これは人間のご都合を超えた物である

 

 しかし、生命はその固体となってその人の精神活動に委託されている。つまり身体と心が一体となって自立したものが生命である。ところがその自立した現実の生命は人間の欲望や愚かさによって使役されているといってもいい。それは汚れた生命である。

 ところが、愚かな生命の在り方に気が付いた時、生命を真実・真理にしていかなければいけないと言う事に目覚める。の愚かで汚れた生命を真実の生命にしていこうと言う自覚である。それが本当の意味での主体的生命という事になる。
 
  すると神仏に所属する生命を、神仏の心を体して主体的に生きるのは人間の責任という事になる。神仏の生命といって思考停止するのでもなく、人間の都合で勝手にするのでもなく、神仏の御心にかなう在り方を心掛けるのが仏教的生き方という事になる。

 

また、脳死・臓器移植という「場」が、苦しみから真理の実現に向かって拠り所を替え、自己転換を計る大切な契機なのだということが分かる。脳死・臓器移植という「場」を、人間として、より良く生きる人生修行にしていくことが仏教の立場だという事になる。

 

2)臓器移植に対する仏教界の反応

 

日本の仏教界では、本願寺の場合、統一的な見解は出していないが、「生命の尊厳」を論拠とした反対論もおおく見受けられている。

 

しかし、どちらかと言えば、脳死には躊躇し、臓器提供には消極的に賛成と言う意見が多くある。

 

一方、創価学期では、慎重な姿勢を示しながらも基本的に賛成しているが、真宗大谷派は概ね反対する立場をとっている。さらに、大本では強力に反対し、脳死・臓器移植に反対する署名活動を展開している。

 

 

3.キリスト教における生命観について

 

1)聖書による生命観

 

新約聖書における生命観は旧約のそれを前提し、ある点でそれにとって代っている。

 

イエスの奇蹟物語と譬話の叙述には、生命の創造者・維持者たる神との正しい関係に人を生かす「神の国」の現実的到来の事実が示されている。また初めからイエスを霊的存在としてとらえたバウロにとって、イエスは救い主・キリストであるとともに、人間生命のいっそう大きな広がりを啓示する存在であった。

 

福音書記者ヨハネにとってイエスは神の子であり、神に至る道であり、復活であり、生命であり、彼を信ずる者は死を味わうことなき「神の国」で永遠の生命を現に受けている。

 

キリスト教における人間の生命は、父なる神によってこの世にもたらされたものであり、死はこの世を去って神の元へ帰ることである。人間の「生と死」は神の意志によって支配されている。

 

 人間の死は、人類の始祖であるアダムの罪が全人類に及んだ結果である(新約ローマ人への手紙、5章、12節)。人間は神の意志に背き、律法に反し、神の望む状態から離反する原罪を背負った存在である。人間の死は神から離反した罪の結果であり、神の裁きの印である。罪深い人間にとって死は避けられない。

 

 しかし、神は、神の律法に背く罪深い人間を救済するために、イエスをこの世に使わした。イエスは人間の罪を贖あがなうために十字架の死を引き受けた。このイエスを信仰することによってのみ、人間は罪が赦ゆるされ、裁きの印としての死の刺が除かれ、神との和解が赦ゆるされ、永遠の生命いのち(霊的生命いのち)が与えられる。 

 

 神を信じることは、イエスに従うことである。イエスにならって「おのれの十字架」を背負うことである。あらゆる苦難、迫害、困難、孤立、絶望や死を覚悟してイエスを信じ、従うことである(マタイによる福音書16章-24,25節)。

 

イエスを信じ、神にすべてを任せ、委ゆだねた者は、永遠の生命いのちを与えられ、苦難、死を前にした恐れ、不安、孤独、虚無と絶望に陥っても、救われ、慰められ、それに耐え、打ち勝つというと希望が与えられる。

 

 

2)臓器移植に対するキリスト教界の反応

 

  日本では目立った反応は見られない。賛成・反対もはっきりしない。脳死・臓器移植に限らず、生命科学に関する問題群に対して、日本の教会(特に、プロテスタント教会)は十分な対応ができていないようである。

 

  ただし、聖書と生命論理の諸問題との議論は、短絡的な結論を引き出せるものではなしに、律法的な対処の仕方ではなく、人間の創造とキリストにおける神の愛という視点から、捉えなおしていかなければならないことにしている。

 

  欧米では、最初から簡単に合意形成がなされたわけでなく、臓器移植をめぐっては、賛否領論があった。しかし今日では、脳死・臓器移植に関しては殆どが賛成の立場をとっている。

 

 

4.終わりに

 

仏教界での生命観は、神仏の心を体して主体的に生きるのは人間の責任という事になり、「神仏の御心にかなう在り方を心掛けること」を求めている。

 

一方、キリスト教での生命観は、人間の本質と永遠を視野にいれ、「イエスを信じ、神にすべてを任せ、委ゆだねた者は、永遠の生命いのちを与えられる」ことである。

 

 

しかし、各々の細かい教理は異なるが、基本的に「神から授かれた命を大切にしながら、神の教えに従って生きること」という面では共通しているのではないかと考えられる。

 

臓器移植については、仏教界では、「脳死には躊躇し、臓器提供には消極的に賛成と言う意見が多くある」が、キリスト教界では「おおむね賛成」している傾向をみせている。

 

ただし、臓器移植に対する考え方は、生命観だけでなく人生観、人間観など其々人がおかれている状況によって変わるものである。

 

特に、日本においては他の国と比べ宗教を持っていない人も多いことから、個人的には、脳死にも臓器提供にも賛成する人が結構いると考えている。

 

 

 

「参考文献」

 

1.小原克博、「脳死・臓器移植をめぐる日本のキリスト教界の動向」、宗教と社会学会、2000

 

2.東方敬信、「キリスト教と生命倫理」、日本基督教団出版局、1993

 

3.「生き方を考える会」ホームページ

   http://www.think-life.gr.jp/

 

4.山内一雄の哲学・文学の思索と創作-生命倫理」ホームページ

   http://www.asahi-net.or.jp/~AI6Y-UCYM/siseikann.htm

 

 

 

Religion-030716.doc

 

 

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